進化論の破壊的側面

サルから人への説明でよく使われる進化論ですが、生態系だけではなく人間の性質、社会の文化など、人に関するものを広範に記述できるようになっていくと考えられます。人レベルでいうと、「人を殺してはいけない」といった生得的な善悪の感覚、喜怒哀楽の感情や欲求、社会レベルで言うと宗教、規範などのシステムを説明する基本原理になりえると思います。言ってみれば人間/社会のマクロレベルを記述する根本原理です。


しかしながら、進化論はその強力さゆえに破壊的であるともいえます。より多くの子孫を残すことが現在の状態を説明するために、以下のようなケースが想定されるからです。

レイプ遺伝子をもっている男性は、レイプ遺伝子をもっていない男性に対して、繁殖の点でも進化の点でも優位性をもっていたというのである。


レイプ、殺人、不貞を進化論的に考える(1):MikSの浅横日記:So-net blog


この例では、最終的に「レイプが進化における適応の一例であるという見込みはきわめて低いものになりました」となったようですが、進化論が持つその性質からこのような例はいくらでも考えられると思います。我々がここにいるのは、過去での、「手段を選ばない」より多くの子孫を残すことの結果であるということは、我々自身の存在を危うくします。


人の善意的な側面でさえ、協力ゲームを通しての自分の利益の計算の結果であると思うと自分自身の感覚も信じられなくなってしまうかもしれません。キリスト教で、人がサルであったわけがないという進化論への批判は本質的にはこのような推測を許容できなかったのだと思うと、批判したい気持ちも理解できます。


とはいえ、進化論のロジックが間違っているようにも思えません。進化論が正しいとして我々ができることは何かを考えるのが現実的と思いますが、一つの希望はやはり協力ゲームです。人が進化論に支配されているということは認めてしまって、善意的な戦略が適応しやすいような社会システムを構築するというのが一つの選択肢だと思います。