英語がいらなくなるとき

コミュニケーションがグローバルになってきたこともあり英語の重要性は増えていますが、今後英語が要らなくなる可能性も結構あるかなと思っています。


大きな理由は、各個人で行われる英語の総学習コストが高いことと、外国語を理解することが本質的にCreativeでは無いことです。もちろん、ある種の翻訳に関してはCreativeな部分があるかもしれませんが、ほとんどケースの翻訳はあまり変化しない単語、構文をベースに翻訳することができます。外国語を理解するにあたって全く同じ苦労を各個人が別々に負担するというのは、総量として大きなコストになります。それよりも知性を外国語を翻訳するシステムの開発に集めて、できたシステムを使っていく方が効率的です。それぞれが負担するはずだった外国語の学習コストを別の生産的なものに使うこともできます。


英語が要らなくなるシナリオとしては、コミュニケーションがさらにグローバルになることが逆に効いてくるのではないかと思います。グローバルになることで人と人の間に機械が入るからです。通常、言葉を話すときには声が聞こえる範囲で話すため間に機械が入る余地はないのですが、距離が大きくなったとき必ず機械が入ります。電話、Skypeテレビ会議、チャット、将来もっと便利なものが出てくるとしても間に必ず機械が入ります。機械が入るので何らかの言語処理をいれる余地があります。もし人の移動による直接的会話よりも、このような機械が間にあるコミュニケーションが多くなると間に翻訳システムがはいることが効果的になるので、シームレスに母国語で会話できるようになるバイアスも高くなると思います。


また、翻訳が比較的しやすい文書をよむ機会が増えているという結果があったり、youtubeで自動翻訳した字幕を出すように英語ベースで蓄積されてきた知的財産が自動的に翻訳されていく流れにあることを考えると世界の言語がシステムによってシームレスにつながる可能性もあるのではないかと思います。各言語の上に構築されてきた文化的なものを保ちながら、世界がつながっていく方が面白いものができそうな気がします。