殺し合いの構造

3つの異なる民族(セルビア,クロアチア,ボスニア)の友人のグループが民族紛争に巻き込まれていく話です。

ある事件をきっかけにして、クラスの席が民族ごとに別れるようになり、大人同士が喧嘩をするようになり、そして十分に下地ができてくると、突然、民兵となって殺し合いが始まります。そういう状況でもこっそり会っていた友人たちは殺し合いに巻き込まれて、民兵に殺されていきました。

筆者は、友人たちを殺した民兵と対立する民兵に助けてもらいますが、彼らもまた他の民族に対しては同様の振る舞いをしていました。絶対的な悪であると思っていた民族も他の民族から同様の被害を受けていたようです。

戦争の体験談を語るわ その1
戦争の体験談を語るわ その2
戦争の体験談を語るわ 完結


この話を読むと、起こっている紛争が解決のしようのないどうしようもない問題に思えてきます。互いの人たちは平和を望んでいるのに全体としては殺し合いになってしまい、それを認識していても止める手立てが無いからです。この問題は以下の要因が絡まっているように思います。

  • (1) 一般に協力する規模が大きいほど利益が大きく、そのグループの形成に民族、宗教が作用する
  • (2) 悪人が他グループに作用したときに他グループからは悪人のグループ全体からの攻撃と認識される
  • (3) 以下引用にあるように相手が自分を殺す可能性を潰さざるを得なくなる

試しに、ちょっとした思考実験をやってみよう。ある無人島に2人の人間が漂着したとしよう。

自分が「確実に」生き残るための唯一の方法は、相手を殺すことだ。相手が自分を殺そうとしているという疑念を100%払拭する方法が存在しないからだ。馬券と違って自分の命はかけがえの無いものなので、例え確率が低くても殺される可能性があるなら、自分が先手を打って殺してしまった方が良い。だから、ふたりがどれだけ平和を願っていたとしても、その彼ら自身が凄惨に殺しあう可能性は高い。というより、上の条件から導かれる唯一の結末は、無人島に着くなり互いに殺し合いを始めることなのだ。ふたりは自分たちの置かれた状況を考慮して「今後無人島で生活していく間に相手が自分を殺そうとする確率はゼロではない。それなら先手必勝だ」と瞬時に判断し、同時にナイフを抜くわけだ。

平和主義を唱える人たちへ


ちなみに、この話はフィクションであると言うことが以下にありますが、印象的な文があったので引用します。

戦争の体験談を語るわ 後日談


どうしようもない避けられない理不尽に対して

神が相手を許せと言うなら、相手を許さずに同じ事をする僕達を許せ
そして神は結局何も出来ない。神の意志でこの苦難を起こしているのだとしたら、
神は僕にとって悪魔だ


その理不尽を受けた人の内側

何故多くの戦争体験者が死が近くなった時になって体験を語るのか。
何故、亡くなった後に手記が見つかるのか。
何故、一部の体験者しか世に体験を広めようとしないのか。


リアルとされていることについて

どちらが正しいかなんて、自分で判断するしかない。
なぜなら、プロパガンダを流す側にとっては、それが正しいからだ。
そして片方にとっては、その正しいことが間違いなんだ。