宗教は必要か

まず、「宗教とは何か」ということですが、宗教とは社会形成のプラットフォームであると思います。

本質的には人間のライフゲームが協力ゲームの構造をもつために社会は形成されます。ただしこの協力ゲームはもろい信用の上に成り立つことになります。囚人のジレンマのように、相手が協力するときに裏切る選択をするほうがより大きな報酬が得られるからです。従って、社会を形成する条件として相手を裏切れないようなルールが必要です。


社会の規模が小さいときにはこの信用の問題は比較的小さいでしょう。小さい社会では互いの性質をよく把握できるため信用に値するかどうかを覚えることができ、協力関係が生まれやすくなるためです。

問題となるのは社会の規模が大きくなってくるときです。このときには相手を信用する基盤が必要になります。協力するにあたって自分と同じルールに相手が従っているという認識を必要とします。このルールが宗教であると考えられます。つまり、宗教は人の集まりというハードの上のOSの役割をして社会を形成しているといえます。


民主主義や法律もそのルールになりそうですが、民主主義の色が強いアメリカでさえ宗教がのこっているとすると、やはり強い信用を与えるには宗教がまだ必要と言えそうです。例えば、知らないところでも神様が見ていると思えばそう簡単に変なことはできないので、より強いルールとして働くのかもしれません。


ただし、宗教が今後も必ず必要とされ続けるということも言えないと思います。なぜなら、社会も一つの個体として振舞い、これを新しい単位として自然淘汰が適用されるからです。このため、宗教に変わる新しい効率的社会を形成するプラットフォームが出現する可能性があります。それは現在の宗教と同様に強固なルールを作り出すものになるはずです。

より進んだ民主主義とか、より独裁的なルールをもつ国家とか。より監視された社会とか。
または、人自身が根本的に修正されるかもしれません。